犬の生活

 

 (ずっと昔の話)

 

 

わが家にいた犬が脱走を企て2日間帰ってこない。偶然、逃げたのではなく明らかに脱走を企てたのだ。

 

犬の名前はタオという。16才と5ヶ月のオスである。人間でいえば85才ぐらいになるらしい。

 

どこの家でもそうだと思うが、わが家でも子供たちが飼いたいと言い出した。

 

世話をするから、面倒みるからというので本当だなと念押ししたのだが、面倒みたのは最初の数カ月くらいのもので、結局親が面倒をみるハメになった。

 

 

犬をケンネルに買いにいった。犬がたくさん寝ていた。犬が寝るからケンネルというのだろうと思っていたがそうでないらしい。

 

 かねがね犬は日本犬の方がいいと思っていた。ピシッと立った耳、クルリと巻いた尻尾は賢そうである。短毛でこざっぱりしていて、いかにも日本の犬という雰囲気がいい。耳がタレ、毛がもしゃもしゃした洋犬はどうもうっとうしい。

 

子犬がいたので店の人の聞いたら、柴犬もどきで3000円、こちらが真性柴犬で4万円。どっちにしますと言うので、すかさずもどきにしたことは言うまでもない。

 

もどきは結局大きくならなかった。詳しい人によると豆柴にあたるのだそうである。ただ、全然病気もせず丈夫だったのはありがたい。

 

タオは中日から阪神に移籍した田尾からとったわけではなく、当時、未来少年コナンというアニメがあり、登場人物のタオという名前が気にいって子供がつけたものである。

 

退屈な16年

 

躾をまったくしなかった。今ほどペットブームではなかったこともあって、躾についても無頓着だったので、結局賢い犬にはならなかった。

 

近所迷惑なので放し飼いはできない。狭い庭に犬小屋を建て、つないで飼うことにした。せめて家族の顔が見える方がいいだろうと居間のすぐそばに作った。こうしてわが家の警備部長としての退屈な16年が始まった。

 

その間に猫が一員になった。猫は飼いたくなかった。ワガママだからだ。しかし知人が執拗にもらってほしいとすすめる。

 

二度断ったが、三度目はとうとう子猫を持って家まで来た。子猫を抱かせてしまった知人の勝ちである。

 

結局、わが家は犬、猫、ボリショイサーカスの熊(家内のことです)の同居となった。

 

昔、郷里の家では犬も猫も飼っていた。ネズミもいたので猫もしっかり働いた。昔の家はどの家も出入り自由、夜は施錠などしなかったので猫は自由に出入りしていたが、今のようにどこもかしこも施錠をするようになると猫も出入りできない。

 

毎朝5時頃、出せ、出せ、とせがむ。眠い目をこすりながら戸を開けてやるのが日課になってしまった。

 

そして2階から駐車場の屋根に飛び降りるので、とうとう塩ビの屋根をブチぬいてしまった。わが家だけならともかく、向かいの駐車場の屋根も破ってしまい、弁償するはめになった。

 

ともかく猫はこりごりである。ワガママだ。飼い主に恩を感じている様子がまったくない。オスだった。徘徊していたのだろう。

 

突然、この猫はオタクの猫の子ではないですかといって近所の人がわが家の猫そっくりの猫をもってきた。そう言われても、うちの猫の不始末なのか現場をみたわけではないのでわからないが、そっくりだから仕方がない。これも平謝りである。

 

 

去勢した。これでおとなしくなるでしょう、と獣医さん。とんでもない。一向におとなしくならず、ケンカして瀕死の重傷を負うわ、夜な夜な鳴きわめく。これでは話が違う。獣医さんに言ったら「そういう猫もおります」。

 

猫のウギャオーと鳴くのは不気味である。日頃ゴロゴロやっているのが突然、ウギャオーと変身するのだから、その落差はとても同じ猫とは思えない。

 

夜にランランと光る猫の目を見ると、小学生の頃、女が突然振り向くと化け猫に変身しているという怪猫五十三次という化け猫映画を見たことを思い出す。

 

元祖口さけ女である。わが家の猫も突然、怪猫になるのではないかと、夜、後ろをついてくる猫をまともに見るのは怖かった。私の猫ぎらいは子供の頃の体験に理由があるようだ。

 

それに較べると犬は不憫である。家の中で飼うこともできず、毎日、直径3メートルの円内をグルグル回るだけ。何するでもなく、毎日同じ景色を眺め、庭の穴を掘り、時間がすぎていくのを待つ。

 

たまに道を通る犬に向かって吠え、通りすぎればまたもとの退屈な時間である。朝晩30分の散歩が唯一自由な時間。それも次第に夜だけ30分になったが、文句を言うわけではない。

 

毎日同じドックフードを食べる。栄養がある方がいいだろうと、オリゴ糖入りなどというのを買ってくる。オリゴ糖がいいのかどうか知らないが、犬はどうもオリゴトウなどと感謝するわけではない。

 

昔の犬は残りご飯にみそ汁のぶっかけだった。これでは犬にとって塩分のとりすぎで、栄養がかたよっているらしくどの犬も短命であった。

 

しかし、今のように知識がないし、第一犬の食い物に気を配れるほど人間もいいものを食べていなかった。

 

それでもたまにマグロのフレークをかけてやったら、それしか食わなくなった犬がいて、小学校の作文にそのことを書いたら先生が「まぁ、ずいぶんぜいたくな犬ですね」と赤ペンで書いてくれたことを憶えている。

 

当時からみれば今のペットは王侯貴族の食事である。世界にはペットフードも食えない人もいるのに、犬猫がこんないいものを食っていていいんだろうかと思いながらオリゴ糖入りのドッグフードを与えている。

 

飼い犬に咬まれる

 

ボウとしていて何にもわかっていないようだがそうではない。コイツは全部わかっていると思えることがあった。

 

その日は激しい台風の風雨が吹きつけ気の毒なので家に入れた。この際、家で放してみたらどうだろうと思って、その夜は放しておいた。

 

家人のいる間はすみの方でおとなしくしていたが寝静まった頃からはしゃぎまわった。朝、ふと起きると枕元に犬がいる。事情がわからず一瞬、ハッとした。

 

「タオ、もう小屋に戻ろう」と言って首輪を持ったら激しく私のふくらはぎを咬んだのだ。俺は絶対行きたくない、と言っているような血が出るほどの激しい咬みかたであった。

 

そのとき、コイツ全部わかっていると思った。 犬にすれば、あっと驚くワンダーランドだっただろう。竜宮城にきた浦島太郎みたいなものだっただろう。

 

それを帰ろうと言われたわけだからキレてしまったのだ。このままつながれることがわかっているので抵抗したのだ。

 

まさかと思っていた飼い犬に突然咬まれたのだから、咬まれた私もキレてしまった。はり倒してしまったのだ。愛犬家がこれを読んだらキャンキャンと抗議が殺到するかもしれない。

 

ふたたび3mの円内の生活が再開し、退屈な日々が続いた。ある日、明かりの下でみた犬の目が真っ白だった。白内障だ。

 

犬も長生きすると白内障になるのは人と同じである。その頃から、散歩に出るとあっちこっちに当たって歩くようになった。

 

よく見えていないようだ。やがて、足が弱ってきたのがわかった。土手に前かがみで前足をつくと、身体をささえきれず、そのままでんぐり返ってしまうようになった。

 

散歩も面倒そうだ。行きたくないというそぶりをすることがある。途中で足をとめてしまい、ちょっと休ませてくれというポーズをとる。

 

走ることができなくなったし、足を上げてオシッコができなくなった。人と全く同じである。まるで私の行く末を見ているようであった。

 

これからそう永くは生きないだろうから、いっそ庭に放し飼いにして余生を送らせようと逃げないようにいろいろな造作をした。

 

放されてもしばらくは気のないそぶりである。隙間をみつけて、顔をつっこんでは、肩を落としてダメだこりゃ、というそぶりを私の前で見せる。

 

逃げる気なんかないよと油断させる戦略だったのだ。その夜、すっかり寝静まった頃にまんまと脱走してしまった。今ごろは、ヘッヘやったぜと喜んでいるかもしれない。

 

あーぁ面白かったけど、腹へったから食わせてくれとそろそろ帰ってくる頃だろう。

 

考えてみれば16年間つながれた生活はかわいそうである。何も悪いことをしたわけではないのに無期懲役の囚人と同じである。30分の運動の時間があるのも囚人と同じである。

 

うれしい、悲しいなどの感情があるから、犬にも退屈で退屈でウンザリだという感情もあったのかもしれない。

 

ひとときの脱走で何を思っただろうか。人の生活に近い動物ほど感情移入がある。もっともペットといってもクワガタに感情はないだろう。

 

魚だってそうに違いない。水槽に飼われたアマゴは退屈で退屈で、早く渓流に放してくれと思っていないだろうから、こちらから心を移入することがない。

 

しかし犬猫は違う。こちらの心がすべてわかっている。口に出せないだけである。それだけに不憫である。

 

最近では犬も単なる警備部長からコンパニオンドック、人の心を癒すアニマルとして見直されてきている。もし、今度飼う機会があれば、犬にそういう生活を送らせたいものだ。