アマゴ谷のイワナ

 

魚止めの滝

岐阜県の川の多くは太平洋に下るが、分水嶺から北は日本海に流れる。その一つの荘川の一大支流に尾上郷川がある。尾上郷川の流れは御母衣(みぼろ)ダムに注ぎ、やがて富山湾で海と交わる。

ダムから10kmほど遡った支流にアマゴ谷がある。アマゴ谷は30年近く前から足繁く通った渓流である。

アマゴ谷に入るとすぐに小さな2つの淵があり、そこからほどなくしてある5mの滝は遡上した魚の魚止になっている。

アマゴ谷はしばらくして大日谷に分岐するが、2つの支流とも上流には10mほどの滝がある。いずれの谷にもアマゴがいた。アマゴ谷のアマゴは、サビ色の体側をした特有の魚体である。

アマゴ谷を詰めるとやがて川床の滑石にびっしり苔がついたところに出る。周囲に林立する渓畔林とあいまってアマゴ谷随一の景観である。

滑石の間の小さなツボにもアマゴがいて、ポトッと落ちた毛バリを疑いなくくわえるのもアマゴ谷の楽しみだった。

あるとき尾上郷川は本来、日本海に流れるのだからヤマメ域なのに、なぜアマゴ谷と呼ぶのだろうかと疑問が沸いた。

甘子谷

その答えは2000年に発売された【峠を越えた魚 ーアマゴ・ヤマメの文化誌】(鈴野藤夫、平凡社)にあった。

同書で延亨三年(1746)の「飛騨国中案内」の記述を紹介している。 

『尾上郷村より二里余の谷奥に、甘子谷といふにあまごの魚多く居候。此魚は昔平家の士、此谷に隠れ居候節、右あまごといふ川魚を此谷にはなち候よし、依之今に至る迄甘子魚住候由なり』

すでに江戸中期に甘子谷の記述があることは、それ以前からアマゴ谷にアマゴを放流しつづけていたことになる。

では誰たちが。平家の落人ではまずないだろう。

鈴野さんは同書で、長良川源流とアマゴ谷のあたりに30戸ほどの木地師の集落があり、木地師たちが長良川源頭からアマゴ谷にアマゴを放流していたのではないかとしている。 おそらくここには交易ルートもあったと思われる。

二つの流れはともに大日ケ岳(1709m)が源流であり、ここは日本海と太平洋に分かれる分水嶺である。2つの源頭の距離は数kmしかないので、長良川のアマゴを峠を越えて移植していたのだろう。

ここで、なぜアマゴだったのか?と思う。尾上郷川の本流、支流にはヤマメもイワナもいたはずだから尾上郷川からイワナを移植してもよかったのではないだろうか。

そもそも、この谷にもともとイワナやヤマメがいるなら、わざわざ峠の向こうからアマゴを移植しなくてもよかったのではという疑問である。

 

 

なぜアマゴだったのか? 

移植するまでアマゴ谷には魚が1匹もいなかったのではないかと考えられる。アマゴ谷には5mの滝があるので魚は尾上郷川からアマゴ谷へ遡上することができないからである。

サケ科魚類が誕生したのは200万年前ごろからとされている。進化をとげながら大陸と地続きだった今の日本列島にも進出し、やがてヤマメとアマゴに分かれるなどしたようだ。

もし、あの5mの滝が、ヤマメやイワナの尾上郷川へ進出以前にすでにあったとしたら、滝より上流には遡上できず上流には魚は1匹もいなかったと考えられるからだ。

源頭の木地師たちも谷を下り、尾上郷川から魚を移植するより、長良川との交易ルートを使ってアマゴを移植する方が手っ取り早かったからではないかと考えられる。

誰かが放流?

私がこのアマゴ谷に通い出して30年近くたつが、この間、私も釣り仲間も1匹のイワナを見たことも釣ったこともない。

ところが10年近く前からアマゴ谷にイワナがいるようになり、今ではアマゴ谷、大日谷の上流までイワナがいるという。

以下は推測である。

1.最近になり、誰かが下流からイワナを持ち込んだ。アマゴ谷にはイワナがいない、それなら放流すればいい。

そうだとすればアマゴ谷の歴史を知らずに安易に放流してしまったことで、歴史的に文化的に価値のあるヤマメ域にアマゴだけが生息するという貴重な谷が永遠に失われてしまったことになる。

ブラックバス、スモールマウスバスの放流、さらに最近ではブラウンの密放流も問題になっている。釣れるなら、魚がいないなら、と安易に放流する前に、放流による 生態系、歴史的な影響を考えなければならないだろう。

2. もともとイワナはいた。私がイワナを見なかった、釣らなかっただけ。木地師たちもイワナだけなので長良川からアマゴを入れ、それでアマゴ谷と呼ぶようになった。

アマゴ谷で釣りをしている人たちが、いつ頃からイワナが釣れるようになったかの情報があれば、どちらの推測が正しいかわかるのではないか。