餌釣りの宿命
餌釣り師が満足する平均匹数は22匹という調査結果がある。この調査結果を聞いて、餌釣りの宿命を思った。私もテンカラ一筋になる以前は
、餌釣りをだいぶやったし、渓流のルアーも多少経験している。餌釣りにのめりこんでいる頃は、今のような成魚放流はなかったので22匹などとてもとても。多くは望めなかったが、それでも次から次に釣れるがままにビクを満杯にしたことも何度かある。左腰のズッシリと重いビクに深い満足感を覚えた。
家族に自慢し、ご近所にも配り、オタクのご主人は・・・という話を家内から聞いて悦にいったときも正直ある。あるとき、テンカラに偶然めぐりあい、次第にテンカラのおもしろさに触れるにつれ、餌とテンカラの二股からテンカラ一筋になっていったが、すぐにとはいかず餌とテンカラの間をいきつ戻りつする心のゆれも経験している。
私の経験からすれば餌釣りは多少、釣れた程度では満足できない釣りである。なぜなら釣れて当然の常食の餌、そこにハリをしのばせ、水の抵抗のない細いハリスを使い、錘をつけ、定位している魚の口の前に餌を送り込む。餌には常食の川虫のほかに、ミミズやイクラといったコマセ効果のある餌もある。
正直いってこれで釣れないわけがない。言い換えれば餌釣りはいかに効率よく、たくさん釣るかを工夫してきた釣りである。釣れてあたり前の仕掛けや餌なのだから、釣れなければ満足できないのは当然である。釣れなくても仕方がないという「遊び」
「ゆとり」の要素がないのである。
ダマシテ釣る快感
これに対し、テンカラは真逆である。偽ものの毛バリを使い、錘も、目印もない。仕掛けの長さにしても餌釣りに比べればしれたものだ。これで釣ろうというわけだから最初からハンディを背負っている。逆にハンディがあるからこそ、釣れたときの喜びは
何倍も大きい。餌釣り師でテンカラを経験したいという人の多くが、毛バリで釣れたことにまず驚き、まさかの偽もので釣ったときの面白さに触れ、餌釣りを止める人も多い。
偽の毛バリで釣るというダマシテ釣る快感は本能的なものではないかと思う。誰にでも経験のある子供の頃の遊びの多くは、ダマス快感と、ダマサレテしまった照れくささと
、その裏返しであるダマサレタ楽しさである。テンカラの面白さには偽の餌でダマスという子供の遊びの延長にある。不謹慎な表現になることをご容赦いただきたいが、ダマシテ最高な快感が得られるのは銀行で偽札を使うことだろう。偽ブランドを本物といつわって売る業者もひそかな面白さを感じているかもしれない。
よく「釣りはスポーツ」と言う。スポーツフィシングという言葉もある。どこがスポーツなのだろうか。身体を動かすから? 多少、汗をかくから? では魚群探知機で棚を探り、電動リールで釣る船釣りはスポーツフィシングだろうか。
どうみても漁にしか見えない。スポーツの「切り口」はさまざまだろうが、私はスポーツは相手と五分と五分の条件であることが前提と思う。五分と五分でフェアに戦うためにルールがあり、弱いものにはハンディをつけ対等にし、体重差があれば階級別にする。
白鵬と高校相撲部員が相撲をしても勝負にならないし、お互い面白くない。餌釣りは白鵬と高校生のハンディなしの対戦である。勝って当たり前、勝ったからと言って面白くもない。もちろん、テンカラも魚に対しては圧倒的に優位である。対等ではない。しかし、
さまざまなハンディがついている。それでも対等にはならないが、スポーツの条件に近づいている。スポーツに近い釣りである。
掛ける前に魚を見る面白さ
テンカラは掛ける前に魚の「出」を見る釣りである。釣る前に魚が見えるとなぜドキッとするのだろうか。キャリアを積んだからか、歳だからか、ドキッとすることも少なくなったが、それでも尺ものがヌゥーと顔を出せば今でもドキッとして心臓はバコバコになり、
ドキドキが静まるまで大きく肩で息をつく。
なぜドキッとするかといえば、一瞬だから、不意だからである。後ろから、ワァ!と大きな声をかけられれば誰でもドキッする。平常が破られた瞬間はある種のストレスがかかる。もちろん軽いストレスである。強いストレスならば死ぬこともある。
お化け屋敷は軽いストレスの体験ツアーである。出ることがわかっていても、出るのではないかという不安と期待、「出たぁ!」というドキドキ感はしばらく間をおいて心地よい快感に転化し、「楽しかったね」とお化け屋敷を出る。テンカラは出ることへの期待と、不意に出たときのドキッ!を味わい、それが快感に転化する釣りである。
魚が水面に出る方が面白いことは、フライフィシングではドライフライの方が好きという人が多いことからも
うなずける。前もって見えるのだから、掛ける前に魚のサイズもわかる。テンカラも経験を積めば小さい魚は掛けずにすますこともできる。
餌釣りにはドキッ!感がない。不意打ちがないのだ。せいぜい目印が動いた程度の刺激であわせをくれる。目への刺激はその程度である。掛けてはじめて魚が大きいかどうかがわかる。
だから小さい魚も掛けてしまうことになる。なかには小さい魚を掛けるためにハリを極小にする人もいる。餌釣りは細糸なので、切られる心配があり、魚とのやりとりは面白い。テンカラは掛けてしまえばまずハリストラブルはない。つまり、テンカラは掛ける前に面白さがあり、餌釣りは掛けた後にそれがある。
もし、釣り人の釣欲を100とすれば、テンカラは魚の出を見て掛けるという面白さで70が満たされる。魚を手にする満足度はせいぜい3割である。魚の出を見るだけでかなり釣欲は満たされるため、釣果にはこだわらない。一日に数回、毛バリに出ただけで、1匹も掛けられなくても結構満足できるものである。十分楽しい。もちろん、掛けて魚を手にすればそれにこしたことはないが。
ところが、餌釣りは釣れてあたり前の釣りであり、掛ける前に魚を目にすることによる面白さがないので、魚を手にしなければ釣欲は満たされない。魚を1匹も釣らずにおいて今日は楽しかったということはないのだ。欲には限りがない。最初はビクの底の数匹が、そのうちビクのベルトが肩に食い込まなければ満足できなくなる。これは釣れてあたり前の餌釣りの宿命である。
テンカラ師は欲がない、餌釣り師は欲が深いと言っているわけではない。強欲な人を除けば、欲の深さはテンカラだって、餌だって、アメンボだって同じである。テンカラと餌という真逆の釣りが釣果に対するこだわりを決めている。
テンカラは餌の10倍面白いが私の持論である。5匹も釣れば餌の50匹釣ったくらいの満足が得られる。餌釣り師からすれば、そんな馬鹿な、釣れない言い訳ぐらいにしか思わないだろうが、餌釣りの頃、ひきつったような目で魚、魚・・・だったのが、ふとしたきっかけでテンカラを始めてから、少なく釣ってたくさん楽しむテンカラのよさを知った人を何人も知っている。私自身がその一人である。
渓流の生産性は極めて低い。稚魚放流しても、釣りの対象になるのはせいぜい数%という。それも根こそぎ釣り師の手にかかればサラッといなくなる。魚がいないじゃないかという声に対して漁協は成魚放流でお茶を濁す。赤子の手をひねる成魚なら22匹釣らなければ満足できない。天然魚にもそれだけの釣果を求める。かくして天然魚も根こそぎ・・・・の悪循環のスパイラルである。
少なく釣って十分面白いテンカラを普及させれば、こんな悪循環から抜け出せるのではないかと思っている。淡い期待かもしれないが、こんなに面白い釣りを知ってよかったという声は普及の励みになる。渓流釣りの半分はテンカラ師というのが私の夢である。
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