ノンアルビール

 

一滴のアルコールも飲めない私にとってビールはノンアルコールビールである。今ではどこの店にもあるので宴会や食事会でウーロン茶を飲むことが皆無になった。

日本の各社のノンアルをすべて飲んでいる。沖縄のオリオンビールのノンアルも飲んだ。やがて海外のノンアルを探しだし、各社を順に1ダースづつ取り寄せるようになった。海外のものを取り寄せて4年になる。いろいろ飲み比べた中で、現在はドイツのヴェリタスブロイである。

先日の忘年会で一宮の石原さんがつくってくれた竹コップにジョジョジョーと注いで飲んだ。味は変わらないが缶で飲むより、さらにガラスコップで飲むよりも「プハァー、飲んだ」という気分になる。

テンカラ大王の大王と彫ってくれたが、大玉と読めなくもない。過日、一緒に風呂に入ったとき、見られたかもしれない。

ドイツのノンアルの中身は麦芽とホップのみ。一旦、ビールにしてからアルコールを抜いたものらしい。ビールからアルコールを抜くならかえって手間がかかり値段が高くなると思うのだが120円程度である。アルコールがあると酒税がかかり、高くなるので抜いた方が安くなるのだろう。

日本のノンアルがビールに似せようとしていろいろな混ぜ物をしているのに対して、麦芽とホップだけなので味はすっきりしている。特にヴェリタスブロイは苦みが少なく、ビールっぽくないところがいい。そんなのがうまいかとビール好きに言われそうである。

なかにはノンアルでもアルコール0.7%や0.9%のものもあるが、私はこれでも顔が赤くなり、息が上がる。日本ではアルコール1%未満は酒類ではないので、これもノンアルである。

ある日、百均のダイソーでノンアルを見つけた。なんと原産国はドイツで、麦芽とホップのみである。しかも500mlで100円。即、数本だけ残して15本を爆買いした。それを数回繰り返したら棚からノンアルがなくなっていた。私の爆買いが理由ではなく、季節が秋になっていたので季節商品ではなくなったのだ、と思いたい。

私にとってダイソーもたいそう美味い。ビール好きからすれば、ノンアルをビール呼ばわりするのは風上におけないかもしれないが、ノンアルは飲めない者にとって神がつかわした救いの飲み物なのだ。

宴会や食事会で皆さんがとりあえずビールと注文するときに、「ウーロン茶」と言う肩身の狭さは飲める人にはわからないだろう。「なに!ウーロン茶だと」と思っていることを小心者の私は感じてしまうのだ。心の中で申し訳ないとつねづね思っている。

ビールとウーロン茶、あまりにも違いすぎる。ウーロン茶は泡は出ない。色も違う。どこからみてもお茶である。お茶はシメに飲むものだろうが。

ところがノンアルなら色も泡も見かけはビールと違いがない。酔っぱらってしまえばビールと区別がつかないに違いない。そうかノンアルか、ノンアルなら特別に許してやろうという飲めるものの思いが伝わってくるのだ。

飲める人が私にノンアルをつぐときと、ウーロン茶とでは扱いが全然違っている。ノンアルはビールもどきだけれど、ビールに入れてやろうという気持ちがグラスを持つ手に伝わってくる。

俺の酒が飲めないのか、男のくせに、そんなでかい身体してと言われてきた時代をへて、まったくいい時代になったものだ。 飲めないことを引け目に感じなくていい。アルハラ(アルコールハラスメント)も知られる ようになった。「俺の酒が飲めないのか」と言う酒の強要は、今ではアルハラなのだ。

この歳になって振り返ればつくづく飲めなくてよかったと思う。もし、私が飲めるようだったらこの身体なのでムチャクチャ飲んだだろうから、大学の教員は勤まらなかったと思う。一番、危なかったのはセクハラである。飲まなくても危ないのに(うそです。そんなことはありませんよ)。次に飲酒運転。いずれも懲戒解雇である。

飲めないものがいかに苦労してきたかの下戸の苦難史は次回に。