ワイオミングのレインボー

その1 アメリカの渓流

 

家を出てから17時間でやっとダニエルの家に着いた。成田からコロラド州の州都デンバーまでは10時間の飛行。今年もまた機内で一睡もできなかった。目が冴え、1分も眠ることができなかったのだ。身体はバリケードだが、神経は意外とデリケートである。

エコノミーの狭いシートで座席に貼りつくようにして10時間耐えるのはつらい。帰りは11時間である。それにくわえ帰国してからの時差ボケがキツイことは昨年で経験ずみである。

広大なアメリカ大陸の中央よりやや西、日本とデンバーとの時差は15時間である。着いたのは昼の12時。日本では翌日の夜中の3時。眠い。完徹の朝のように頭がボウとしている。

ダニエルが空港で迎えてくれた。そこから1時間弱でボルダーへ。ボルダーは標高1600mなのでマイルシティと呼ばれている。高地というほどではないが、少し走ると2000mを越える。

高山病にならないように水分を摂るのは必須であるが、乾燥地帯なので喉が乾き、おのずと摂らざるを得ない。

ボルダーに近づくにつれ、ボルダーの象徴であるフラットアイロンの山容が見えてくる。ちょうどアイロンの底のような岩が60度くらいの角度でそそり立っている。5つのピークがあるとのことだ。

これまでアメリカはニューヨークのキャッツキル、カリフォルニアのヨセミテ、モンタナのイエローストーン、ユタのソルトレイク、そして昨年はコロラドのボルダーでテンカラをした。

それでもまた今年もボルダーに来たわけには2つの理由がある。1つはワイオミング州で天然の(向こうでは野生と言うようだ)大きいレインボーとブラウンを釣ること。2つめはダニエルの仕事をサポートすることである。

晴れてはいるがコロラド晴れではない。うっすら空にスモークがかかっている。聞けばカリフォルニア州とワシントン州の山火事の煙がコロラドまで流れて来ているとのこと。

さすがに大陸である。中国の黄砂が海を越え日本に来るようなもので、それが同じ国内での出来事ということにアメリカの広大さを感じる。

自宅で荷物をほどき、一睡もしていない眠い目をこすりながら、ボンヤリした頭のまま釣りに出かける。

街には車が行き交っていて、若い男女が目につく。前日から大学の新学期(アメリカは9月始まり)で新入生の車が右往左往しているらしい。ボルダーにはコロラド州立大学があり、新入生だけで6000人らしいので、大学全体では4万人の学生がいる学生都市でもある。

向った渓流はエルドラドキャニオンである。ダニエルの家からわずか10分である。エルドラドには昨年は行かなかった。ダニエルのお気に入りの渓流のようだ。

キャニオンと呼ぶように周囲はむき出しの赤い岩山の連なりである。赤い岩の間を流れているからか、その中をうっすら土色の水が流れている。周囲の岩山と植生こそ違うもののここは日本の渓流とそっくりである。

「渓流」を向こうではマウンテンストリームと呼んでいるが、アメリカをいろいろまわってわかったことは、我々がイメージする日本の渓流、たとえば深山幽谷 、緑したたるブナの森、清冽な水といったものとはまったく違っていることだ。

日本のように血管のような大小の細流、支流が水を集め渓流になるのではない。乾燥した大地であるアメリカ、少なくともこのあたりでは、日本のようにしたたる雨が渓流をつくるのではなく、水の大部分はロッキー山脈に降る雪の雪解け水である。雪溶け水を大小のダムで貯め、そこから流れ出る水が渓流となる。

つまり、日本の渓流に相当するものはロッキー山脈の周辺にしかないのだ。ボルダーはロッキーの東の端に位置するが、なにせ、そこから東は4000kmにわたってまっ平らの大平原である。山がないのだから渓流はない。

ダニエルは以前はサンフランシスコに住んでいたが、サンフランシスコから渓流にいくためにはシェラネバタ山脈まで3時間余り必要である。私も行ったことがあるが、とても日本の「渓流」と呼べる環境ではない。ダニエルがボルダーに転居した理由である。

エルドラドキャニオンの源流も小さいダムである。そのためうっすら濁りがあるのだろう。キャニオンの岩山はかっこうのクライミングの場所である。アメリカはこの時期サマータイムなので、4時ごろにはクライマーが登り出す。ロープクライミングもノンロープもいる。

意外と軽装である。サンダルもいるし、帽子を被っていない無帽なクライマーもいる。ときどき落ちて死者が出るようだ。無帽だからだろう。途中でにっちもさっちも行かなくなってレスキューが出るとのこと。ダニエルもクライミングをするが、ロープクライミングである。

ダニエルは膝小僧丸出しである。実はこのスタイルのテンカラマンは多い。ゴツゴツの岩なのでこけらたらケガをする。せめてスパッツをしたらと思うのだが、ウエイダーの上からでもスパッツをする人をこれまで見たことがないのだ。またベストを着る人も少ない。シンプルなテンカラであるが、服装までシンプルなのだ。

魚はブラウンである。レインボーもいるようだがこの日は釣れなかった。いつものいい加減毛バリで問題なく通用する。尺ものも出るらしいが、この日は25cmどまりだった。他に釣り人はいない。

ともかくケガをしないようにしなければ。まったく寝ておらず足がフラフラする。それでなくても歳で足に来ているのだから。アメリカでケガをしたら治療費などで面倒なことになる。

夜の7時半、まだ明るいが釣りを終える。土曜に満月になる月が明るく東の空に出ていた。湿気がないので、日本の中秋の頃のような月である。 ふと、岩を見上げるとクライマーがノンロープで一人で登っている。そろそろ暗くなるのにどうするつもりなのか。落ちるか、レスキューか。

2時間でブラウンが20匹といったところである。持ち帰りは1日2匹までの制限があるうえに、ほとんどリリースなので魚は濃い。ここぞという場所からは必ずアタリがある。

ディナーはビザの店で。ノンアルコールで流しこむように食べる。長い一日が終わった。眠い。今晩はぐっすり眠りたい。眠れればいいが。