年々歳々

 

9月末で多くの渓流がオフである。今年もあわただしくシーズンが始まり、駆け抜けるように終わった。つい数ヵ月前のことなのに、こんなことあったんだとすっかり過去という時間に流されて、すでに記憶が薄らいで、今年と去年の区別があやしいこともある。

シーズン最後の日曜は、毎年遊んでもらっている伊那のドクターを訪ね、南アルプスが源流の川で遊んだ。ドクターもこれが今年の最後である。釣り人はシルバーウィークで遊びきったのか、先行者のいない静かな渓流で型は小さいものの、ほどよく毛バリに反応するイワナの一日だった。

本来はヤマトイワナ域だがニッコーイワナも放流されているので、釣れてくるのはハイブリットがほとんどで、これはヤマト?というのも釣れるものの、おそらくハイブリットなのだろう。

もっともヤマトとニッコーの違いはDNAでないとわからないようで、見かけだけでは判別ができないことは素人泣かせである(別に泣いてないけど)。

早い日暮れである。秋の日はするすると山かげに落ち、残照に雲はトキ色にそまり、渓流は黒いシルエットに包まれていった。あぁ、とうとう今年の渓流シーズンが終わってしまった。

年々歳々、一年が速くなる。ますます加速しているように思える。これは誰しもが感じることなので、ではなぜそう感じるのだろうかと本を読んでみた。

一川誠(いちかわまこと)のずばり『大人の時間はなぜ短いのか』(集英社新書)である。たしかに子どもの頃は一年が長かったように思う。

もっとも子どもの頃は一年が長いなんて考えたことはなかったので、これは大人になってからの後づけのような気がする。

なぜ年々一年を速く感じるかには仮説をふくめさまざまな要素が複合しているようで、ズバリ、これだというほど単純ではないようだ。

有力な説の一つが加齢にともなう新陳代謝の低下らしい。新陳代謝の老化が時間の感覚を加速するというのだ。やはりそうなのか。

たしかに40歳ごろから次第に感じるようになったが、老化と関係しているとなれば納得せざるを得ない。当然、個人差があるはずで新陳代謝の老化が進んでいる人ほど一年を速く感じるに違いない。

この本は錯覚を一般向けに解説したものである。一年が速く感じるのも錯覚というわけである。なかに錯視のことも書いてあって面白い。興味深いのは、たとえばテニスボールがライン上に落ちたとしても、人はボールが実際にある位置より動きの方向にシフトしてボールの位置を知覚する、つまりアウトと判断する傾向があるらしい。

最近ではテニスやバレーボールでビデオをもとにしたオン(イン)とアウトの判定シムテム「チャレンジ」が導入されている。オンラインかどうかを一瞬で判断しなければならないので、当然、誤審もある。人はオンをアウトと判断する傾向があるなら、アウトとジャッジされた場合のチャレンジは有効かもしれない。

魚が毛バリをくわえた、くわえなかった判断も一瞬である。毛バリの前でひっくり返るような魚もいるので、目が慣れないとくわえてないのに食ったと思って合わせてしまう。

魚が毛バリをくわえている時間の最短は0.2秒である。ボールがラインに接触している時間は0.01秒程度だろう。

この時間からすればオン、アウトのジャッジに比べたら食った、食わないの判断は簡単である。だからテンカラは合わせにシャカリキになるまでもなく、キャスティングやアプローチに チャレンジしなければ、と思うつるべ落としの秋の夕暮れである。あぁ