アマゴ谷のイワナ 峠を越えた魚

 

キックオフミーティングで峠を越えた魚、尾上郷川アマゴ谷の話をしたところ、当日や後日、何名かの人から詳しいことを知りたいと希望があったので書いてみたい。

東海北陸自動車道の荘川ICから20分のところに尾上郷川がある。国道から尾上郷川に沿ったダートを進むと30分ぐらいで大シウド谷支流のアマゴ谷に着く。

牧野さん、小塚さんの凸凹コンビに案内され、アマゴ谷を知ったのは今から20年以上前である。アマゴ谷は途中で大日谷と分かれるが、その2つの谷とも源流に10mぐらいの滝があり、私がつめたのはそこまでで、そのどこにもアマゴがいてイワナは1匹もいなかった。少なくとも私たちはイワナは釣っていない。

ここのアマゴは体側にサビがかかった特有なアマゴだった。アマゴ谷をつめると周囲のうっそうとした樹林を縫う川幅いっぱいの滑岩にびっしりと苔がつき、お気に入りだった。滑岩のところどころの穴にもアマゴが入っていて、テンカラの楽園のような釣りができた。

通い始めてからしばらくして、ここは分水嶺の向こうの日本海に流れる川だからヤマメ域なのにどうしてアマゴがいて、しかもアマゴ谷と呼ばれるだろうかと思うようになった。当初は尾上郷の本流にアマゴがいるので、それが上流にもいるのだろう程度にしか思っていなかった。

2000年に出版された鈴野藤夫さんの「峠を越えた魚」(平凡社)で、アマゴ谷のアマゴが数百年前に移殖された末裔であることを知ったのだ。同じく2002年の「山釣り談義」(文一総合出版)にもアマゴ谷のことを書いている。

「峠を越えた魚」によれば、延亨三年(1746)の「飛騨国中案内」の中に次のような記述があるという。

『尾上郷村より二里余の谷奥に、甘子谷といふにあまごの魚多く居候。此魚は昔平家の士、此谷に隠れ居候節、右あまごといふ川魚を此谷にはなち候よし、依之今に至る迄甘子魚住候由なり。』

つまり、アマゴ谷のアマゴは平家の落人が放流したものである、という内容である。なんと1746年、今から270年前の記録にすでにアマゴ谷の名前があることに驚いた。ということは、それ以前のずっと前から営々としてアマゴがこの谷に放流されてきていたに違いないからだ。

平家の落人がこの谷奥に落ちのびて、糧としてアマゴを放流したかどうかは定かではない。もしそうだとすれば今から800年前の話である。鈴野さんは、昔、尾上郷川の上流に30戸ほどの木地師たちの集落があったという記述から、大日岳をはさむ長良川筋の郡上との交易ルートがあり、長良川源頭からアマゴを 移殖していたのではないかと考察している。

おそらくそうなのだろう。今はもうないが大日岳の北面にはかってスキー場があったそうで、それは20年以上前まで営業されていたらしい。その頃、牧野、小塚の コンビがアマゴ谷をずっと源頭までつめたらスキー場に出たそうで、スキー場でバカ長を履いてスキー客に交じってカレーを食べたそうである。

つまり、長良川の源流とアマゴ谷の源頭は分水嶺をまたいで近く、江戸時代、あるいはそれ以前からここを行き来していて、それゆえアマゴを移植することもできたのだろう。

なぜアマゴだったのか? イワナでもよかったのではないだろうか? そこにヤマメやイワナがいたなら、わざわざ移植しなくてもいいだろう。

私はアマゴ谷と大日谷には人が棲みつく前に一匹の魚もいなかったと思う。というのは大シウド谷の出合いから2mくらいの滝が2つあり、仮にそこを遡上したとしても、さらにその上流に5mの滝があり、下流から遡上する魚 はこの滝が魚止めになるからだ。

この滝を巻くには右岸の3mぐらいの岩を登ることになる。通い始めたころはスイスイ登っていたが、数年前には尻を押してもらわなければ上がれなくなった。つまり、この岩が私の魚止めの滝になりそうである(恥)

ヤマメやイワナがこの世に生まれて数百万年らしいが、もしこの滝がすでに渓流魚の誕生以前にあったなら、アマゴ谷には1匹の魚もいなかったはずである。アマゴを移植したのはおそらく1匹もいなかったからだろう。なぜアマゴだったのか? イワナでなかったのは・・・わからない。

ところが数年前からイワナがいるようになった。おそらく誰かが放流したに違いない。すでに2つの谷の奥までイワナがいるという。つまり、数百年前から連綿として続いてきた歴史的遺産が、密放流により一瞬にして瓦解してしまったのである。

そこにイワナがいないじゃないか、だったら放流しようと、ただ釣りたいために放流したのだろうが、あまりにも残念である。