落石 −死ぬかと思ったほど怖かったー

 

落石注意の標識は、三角の山から丸い石が落ちて来る図柄である。かって毎日の通勤途中に1ヵ所落石注意の標識があったが、見慣れた図柄から、落石とは石がゴロゴロ転がり落ちるものと思っていた。あの事故に遭うまでは。

平成13711日、長野県遠山川支流北又沢。南アルプスの急峻な山々を源流とする遠山川は、遠山アマゴと呼ばれるヒレが大きく体高のある特有のアマゴや、ヤマトイワナを育む天竜川の一大支流である。だが中央構造線が走っていることもあり、崩落の絶えない所でもある。

北又沢の濁りがとれなくなって2ヵ月余り。一時の茶濁からカフェオレ色に収まったものの、このままでは下流域にも影響があるということで崩落地点の確認に行くことになった。メンバーは4名。水質調査も兼ねて諏訪の水産試験場研究員のOさん、地元から草田さん、釣り仲間の榊原さん、そして私である。

前夜、地図を元に打合せ。翌朝、北又沢出合いを7時に出発。かっての森林鉄道の軌道敷の跡には干からびた数匹のカモシカの死骸が。この冬はことのほか雪が多かったようだ。道路には無数の落石。それもバラバラに砕けて鋭利な刃物のような割れ方をしている。遠山川でパンクが多いのはこの石を踏むからである。2週続けてパンクした釣り仲間がいるが、運転の荒さにも理由があり、あながち落石のせいばかりではない。

1堰堤を通過。小休止をとる。草田さんが指さすところを見上げると、しらびそ高原の山腹を切るように1本の林道が北又沢の源流に向って走っているのが見える。造ったとたんに廃道になってしまったそうで、あの林道も北又沢の荒廃に手を貸しているらしい。

4人は第2堰堤に向って歩みを進めた。ここからは崩落により道は埋まり、45度のガレ場に付いた幅1m程度の踏み跡を一列になって進む。やがて道はとだえ岩盤に出る。そこには4mほどのロープが縛ってあり、それをつたって第2堰堤上の広河原に降りる。第2堰堤はすっかり土砂で埋まり、真っ平らな幅100mはあろうかという河原に細々とした一筋の流れがあるだけだった。

ここで第1回の水質調査。メモを取り、さらに上流を目指す。広河原から川幅はグッと狭まり、見上げれば我々は急峻な谷底にいることに気づく。梅雨の晴れ間の快晴である。右に左に川を渡り、河原を歩き順調に歩を進めた。せっかくだからと、めぼしいポイントで榊原さんと私は持参したテンカラ竿を振る。だが釣りが目的ではないので挨拶程度にサオを出すだけである。

広河原から30分も歩いた頃だろうか。右岸に小さな淵ができている高さ15mほどの岩盤の場所に出た。私は先頭を歩いていた。ふと岩盤を見ると上部がテラテラと光っている! ということは、ここを石がいつも落ちているからに違いない。イヤな予感がした。コチッと石のスレる音がした。本当にしたのか、したように感じたのか分からないが、ここは危ないという直感がした。

ここは危ないので早く通ってしまおうと岩盤を指差し、声をかけた。全員が岩盤を見上げ納得したようだ。そこを迂回するように川を上がり、河原を歩き始めたその時だった。ガラガラ、ガツーン、チーン、チューンという激しい音がした。アッと思って岩盤を見ると、岩盤上部からくだけ散った無数の石が迫ってくるのが一瞬、見えた。

「あ、危ない!」

たぶん、声は出なかったであろう。とっさに河原に伏せたその瞬間、左腕に激痛が走った。

「痛い!」

な、なんだ? 左手が変な方向にある。外側に折れ曲がっているのだ。長袖シャツから血が噴き出ている。しまった、やられた。その腕の先には草田さんと榊原さんが岩盤直下の淵に首までつかって頭を抱え、耐えているのが見えた。彼らの前の水面にはバシバシと水柱が立っている。

まだ落石は続いた。ともかく頭を守らなければと右手で頭を抱え、身をかがめ必死で耐えた。ともかく当たるな、当たるな、頼む! それだけだった。その間にも砕け散った石が私の周囲にバチバチと音を立てて落ちた。

落石は止んだ。幸い、ほかの3人に怪我はなかった。岩盤直下にいたので助かったのだ。石が彼らの頭を越していったその先に私がいたのだった。左腕2本の骨折は明らかである。しかも、曲がりようからみて複雑骨折だ。

歯を食いしばる激痛である。まず血を止めなければならない。タオルを裂いて上腕の付け根を縛って止血する。効果があったようで、血は止まった。幸いにも石は私の腕を滑るようにして落ちたので表面の肉をかすめ取るように剥いでいっただけである。もし、まっすぐ落ちていたら、腕が切断されたのは間違いないだろう。

私は事故の割に意外と冷静だった。3人がいてくれるという安心感がそうさせていた。多少の知識があったので、私はこれから2つの体験をするだろうと思っていた。

「来た!」

スッと気が遠くなった。出血を止めるために血圧が低下しているからだ。目の前が白くなった。これはいけない。頭を振り、とりあえず身体を動かし血圧を上げよう。しばらくして目の前が明るくなった。流木で腕を挟むようにして添え木をしてもらいタオルで腕を吊った。

帰れるだろうか。とりあえず広河原まで下る。ここで岩盤のロープを登らなければならない。登れるか。誰か先に下りてヘリを呼ぼうかという話も出た。堰堤上なら着陸できる。いや、迷惑はかけられない。絶対に登るぞ。

不思議なことに、この頃になると、さしもの激痛もうそのように痛みはなくなっていた。2つ目の体験である。脳内麻薬・エンドルフィンが出ているのだろう。痛みを抑え、その間に生き残るすべを模索させるための人体に備わった不思議である。まったく痛くないのだ。大怪我なのに気分はむしろ高揚している。いつもの冗談さえ出る。

ロープを前にした。仲間が支える手や肩に足を乗せ、右手でロープの結びコブをつかみ、グンと引きながらパッとロープの上をつかむ。この繰り返しである。声をかけ、励まされ、少しづつ上に、上に。とうとう岩盤を登りきった。ここまで来れば、あとは車まで1時間である。車が近くなるにつれ、助かったという喜びがふつふつと湧いてきた。

携帯のつながらない地域である。直近の人家まで車を走らせ、草田さんが電話を借り、救急車を要請し、飯田市民病院に搬送された。仮の手当てののちに地元、豊田の病院に入院、手術となった。以上が落石事故の顛末である。

道路標識の図柄から、落石は石がゴロゴロ落ちて来るイメージだったがそうではなかった。岩盤の上から無数の石が流星のように落ちてきたのだ。あたかもペルセウス流星雨のように。あるいはクラスター爆弾のように。おそらく、岩盤の上から加速して落ちてきた石が岩盤上部で砕け散ったのだろう。避けようがない。ただ身を伏せるのが精一杯である。たった数秒だったと思うが、ひらすら当たらないでくれと祈る時間の長さは一日のようにも感じた。

今にして思えば、腕だけですんだのは奇跡である。とっさに伏せた腕から20cmもずれていたら、脳髄は飛び散って痛さも感じない即死である。背骨なら生涯の後遺症が残ったに違いない。肋骨なら折れた骨が心臓か肺に刺さっただろう。幸いにも骨は腕を突き破らなかった。もし、骨髄が土に刺さったら、生涯、骨髄炎で病むことになるだろうと医師から告げられた。なにより一人だったらまず生きては帰れなかっただろう。

私は運のいい男である。生後3ヵ月で、医師からこの子は助からないといわれた鼠径ヘルニアから奇跡的に生き残って以来、運のみで生きてきた。ここでも運の神様が助けてくれた。左腕だったのも幸いである。もし、右腕なら好きなテンカラにも支障が出たかもしれない。これもテンカラの神様がもっとテンカラをやりなさい、もっとテンカラ の普及に尽力しなさいと助けてくれたのだと思っている。

飯田の病院から家内に事故のことを連絡した。

「いいか、落ち着いて聞いて・・・」

事故のことを話したが、家内は冷静であった。地獄の底を這うような冷たい声で

「なにぃ? 生きてたの。死ねばよかったのに。保険金が入らないじゃないの・・・」

この言葉を聞いて、死ぬかと思ったほど怖かった。私は、運が悪い。

 

(なお、一部フィクションがあります。家内がくしゃみしてます。フィックション!)