堀江渓愚さん逝去

 

 

 

 
堀江渓愚さんが3月11日にお亡くなりになりました。心よりご冥福をお祈りいたします。

逝去の知らせは吉田毛鉤会の吉田さんから当日の早朝いただきました。朝3時20分に息をひきとったとのことです。不思議なことに、ふだん夜中にトイレに起きることはないのですが、なぜかトイレに起きてしまい、何時だろう?と時計を見れば3時10分でした。偶然に過ぎませんが、あるいはお別れに来てくれたのかもしれません。

亡くなったと聞いて、昨夜、あらためて「テンカラの達人パートU」を見ました。二昔前のことで、中身はすっかり忘れていました。ビデオテープなのですでに劣化が始まっていて、それほど昔のことだったのかと過ぎ去った歳月の長さに思いをいたしました。お互い、本当に若い。

堀江さんとは永くおつきあいをさせてもらいました。最初にお会いしたのは「テンカラの達人パートU」の撮影で富山、新潟の境を流れる境川での撮影の折でした。1991年の夏のことです。今から22年前。まだお互いに40代の前半、私はその頃、すでに身体にアブラが乗り始めていたのですが、堀江さんはガリガリで、自分のことをテンカラ界のガイコツ男と呼んでくださいという自己紹介でした。

話のネタが豊富で、間(ま)の取り方がうまく、聞き手をグイグイ引きよせる話術がありました。三面川(みおもて)の「源氏は栄えているか?」の語り口は今でも耳に残っています。二泊の同宿ですっかり意気投合し、以来のお付き合いになりました。私はテンカラ界の講談師と雑誌に書いたことがありますが、ご本人は好男子 と解釈していたようです。

そのとき、初めてみた堀江さんのテンカラはフライフィッシングを長くやっていたこともあって、フライラインを使用したテンカラでした。リーダー、ティペットというフライ用語が頻繁に出て、少し面喰らいましたが、フライラインを使えば初心者でも簡単に毛バリが飛ばせるし、多様な毛バリはテンカラの楽しみを増やすという考えに共感し、堀江さんのテンカラをアーバンテンカラと名づけました。都会派のテンカラ。

当時はビデオでテンカラが紹介され出した頃で、たしか1990年に冨士弘道さんの「現代テンカラ」、翌年に天野さん、竹株さんの「テンカラの達人パートT」が出ました。堀江さんと対極にあるのが瀬畑さんのテンカラ・・ならば二人の達人を紹介する「テンカラの達人パートU」の撮影となったわけで、これは1992年に世に出ました。

ビデオでは早合わせの堀江、遅合わせの瀬畑として互いに合わせについて語ってもらい、私は行司役をしたのですが、どちらにも一理あり、行司としては真上に軍配を上げざるを得ませんでした。

コーヒーが大好きな人でした。岐阜県のある渓流で一緒に釣り上がって、ここから本命ポイント・・・というところで、コーヒーを飲みたくなったから戻るとか、秋田の山中で突然、コーヒーを飲みたくなったと言って、大雨の中、ワゴンのハッチバックをあげて、ブルーシートを杉の木に縛り付け、水が林道をひたひた流れる中でも一杯のコーヒー。自称、コーヒー中毒。

上州屋のフィールドテスターとなって釣り番組「千夜釣行」のレギュラーとなった頃が最も輝いていました。当時はバブルの頃でふんだんに製作費が使えた頃なのでしょう 。愛知県寒狭川の釣りでは女性のスタイリストまで来て、撮影の合間に服装などのチェックをしていました。事情がわからずに、服装なんか自分で直せば、と野暮を言ったのですが、それが彼女の仕事だからとなすがママ、きゅうりがパパでした。

テンカラ師として独自のジャンルを築き、ブレない人でした。レベルラインが次々と出て、レベルラインに傾くなかでも、レベルラインの優位性は認めるけれども私はフライラインを変えない、なぜなら・・というブレない心を持っていて、ブレない心に私は共感したものでした。

昨今、テンカラを始めた人の中には、堀江さん? 誰?という人がいるかもしれません。山本素石さんをテンカラ第一世代とすれば、堀江さんはテンカラ第二世代の一角で普及のために尽力した人でした。今、私たちが何気なくやっているテンカラもどこかで堀江さんと繋がっていると思います。

テンカラ師でもありましたが随筆家でもありました。「風のテンカラ師」これを私は何度読んでことでしょうか。もっと、もっと書いてほしかった人です。

「生者必滅 会者定離」 誰もが迎える死が、堀江さんには少し早く来てしまいました。いずれ私も行きますので、そのときにはそちらの釣り場を紹介してください。一緒にテンカラをしましょう。

さようなら堀江さん、しばしお別れです。

ムッシュの隠れ家「テンカラ編」