昭和24年の毛鈎釣

 

川越のトラウトフェスタの折、埼玉の伊東さんが昭和24年の毛バリ釣りの記事がありますとのこと。送っていただいたのがつり人昭和24年5月号です。毛鈎釣特集號とあります。

昭和24年と言えば、今から62年前。敗戦からまだ4年足らず。後記のページには、(終戦以来、釣に出た釣人で「國破れて山河また亡びたり」の感を抱かない者があるであらうか・・・われわれは何とかして東洋の釣の愉しさを取り戻さなければならぬ・・)と記されています。敗戦の混乱と貧窮の中で、なんとか釣りを復興させようとした先人の思いが伝わってきます。

写真のように現在の雑誌と比べて隔世の感があります。絵手紙のような表紙。ページ数は40ページ。写真は一切ありません。旧かなづかい、旧漢字、なかには右書きもあります。

雑誌の中身は今回は毛バリ釣り特集とあって、毛バリ釣りのノーハウ、毛バリ巻き、釣り場紹介、名人座談会、エッセイ、小説、俳句などで、現在のスタイルとほとんど変りません。俳句の選者は水原秋櫻子。

毛鈎釣とありますが、対象は、鮎の毛バリ釣り(ドブ釣り)、ヤマベ(白ハエ、オイカワのこと)の流し毛バリ、渓流の毛バリ釣りの3つです。この3つをまとめて毛鈎釣と呼んでいて、現在のように渓流の毛バリ釣りはテンカラと呼ばれていません。

雑誌の中で1回だけテンカラが出てきますが、・・・五、六本のはや毛鈎の浮き流し(ここではテンカラと称する)・・とあり、渓流のテンカラのことではありません。現在のように渓流の毛バリ釣りをテンカラと 呼ぶようになったのは昭和40年代になって、山本素石氏が木曾の毛バリ釣りをテンカラとして広めた頃からではないかと思います。

竹内順三郎氏の「毛鈎の自製」を読むと現在と毛バリについての考えが違わないことがわかります。むしろ、今が昔となんら変わっていないのですが。竹内氏のテンカラ毛バリの巻き方は、 まだアイのついたハリはなかったと思われ、ハリのチモトを切って絹糸でアイを作り、羽を細く切って、軸に巻きつけ胴にしています。接着はどうしたかと思いますが書いてありません。

当時から毛バリの作りはどうでもいいと思われていたようです。土地の人で毛バリ釣りを自負している人の毛バリは、人前に出せないような、自分の作る毛バリ以上のものではないという趣旨のことが書いてあります。

また、毛バリの蓑毛(ハックル)の色や素材の違いもそれほどのものではなく、日光ではゴロ蝶と呼ばれる蛾に似たものがいいとされているが、その毛バリとはかなり違ったものを使ったが釣果に違いがあるとは思えなかった ・・という要旨の記述があります。

大津宣房氏の「魚野川付近・渓流の毛鈎釣」はタックルとテクニック編です。1ヵ所で粘るな、キャストは流れの下方か、斜め横からすること、また毛バリの流し方は表面に浮かせる、1〜2寸沈めて流す、横斜めに引く、あるいは羽虫 が飛ぶように動かしながら引くなどのいろいろな方法があるが、時と場合で併用すると書いてあります。今とまったく同じで、当時もいろいろなテクニックを駆使していたことが想像されます。

まったく同じだなと思ったのは次の一文。「特に注意するべきは釣る時に野心、邪念を交へざる心境の保持である。少しの心の動揺も直ちに毛鈎に傳わることは不思議な位だ」  今も昔も変わらないですね。

当時だから釣れたに違いありません。座談会・美濃飛騨の毛鈎釣の中に「高山から大家族村の白川郷に入っても山女魚(あまごとルビ)・岩魚がドッサリいます」「白川村のあたりでは、子供でも日に一貫目はらくらく釣るそうです」「延べ竿の馬毛の道糸一本、釣り道具は至ってカンタンですね」

粗末な仕掛けで、ドッサリ・・ビクを置くときのドスンという音が聞こえるようです。

温故知新。当時の釣り人も仕掛けこそ違え、今とさほど違いのないテンカラをしていたのだろうと想像できます。ただ、魚は桁違いに多かった。テンカラだけなら当時にタイムスリップしてみたい気もします。