自粛しても委縮しない−これまでのように−

 

 

3.11を忘れない。その日は論文原稿の仕事中だった。遠く離れた当地でも突然、グラッときて激しく大きく揺さぶられた。振幅が大きく、しかも時間が長い。これはでかい。すぐにTVを付けた。東北で大地震!! 大津波警報が出されていた。 やがて襲い来る津波。なんだこの光景は。これは大きな被害が出るぞ。身体の震えが止まらなかった。

 

あれから3週間 あまり。国難とも言える大災害となってしまった。なんとかしたい。なんとか手助けできないだろうか。ここにいていいのか。誰でも同じもどかしい思いで今日まで過ごしている。

 

阪神大震災でも同じ思いをした。117日、その日の夜はボウリングの予定が入っていて、事情がありどうしても抜けられなかった。スコアの隣のTVモニターには、今まさに燃えている神戸の街が映っている。それを見ながらボウリングに興じなければならない自分。いいのかこんなことをしていて。

 

今回の大震災で改めて日本人の秩序正しさが世界で評価されている。「自分は十分だから、被害の大きい人に分けてください」という被災者の言葉がTVで流れたとき涙が出て止まらなかった。これを書いている今も目がウルウルしている。日本人てなんてすごいのだろう。

 

数千年にわたって米を作り続けてきた民族のDNAが日本人に刷り込まれている。米作りは天変地異にはひたすら耐えるしかない。そこを放棄して逃げるわけにはいかないのだ。耕作を勝手に止めることもできない。水は満遍なく、どの田にも渡るようにしなければならない。自分のところさえ水があればいいわけではない。 村八分になれば水はもらえない。

 

先祖はひたすら耐え忍び営々として米を作ってきた。それが日本人の根底に流れている。出る杭は打ち、人と同じことをもってよしとするこころ根は、このような苦難なときにあっては一致団結する力となる。

 

震災以来、被災者のことを思うと釣りなどとても行けない気持ちから自粛していた。しかし、自粛が委縮にならないようにしなければならない。過剰に自粛するのはかえってよくないと思う。被災者のことを思いやることと自粛したり、自主規制することとは結びつかない。幸いにして被害を受けなかったものが何か楽しめば、それは不謹慎ということであれば何もできないし、心は委縮するばかりである。

 

TVのお笑い番組も復活し、CMも流されるようになってきた。被災者の方々はとても見る余裕はないかもしれないが、大きな悲しみの中にも、ときには笑い、ときには楽しむ心が同居できるのが人間の深さである。食べ物を粗末に扱うような低俗なものを除けば、バラエティ番組も被災者の元気に役立つと思う。

 

日常生活をこれまでどおり送れる人は淡々と送ればいい。釣りもこれまで通りにやればいいと思う。釣りは観光の一部でもある。観光地はどこも閑古鳥が鳴いている。人が動かなければすべてのものがまわっていかない。それはやがて倒産などで新たな被災者を生むことになる。釣りに行けるならこれまで通りやろうではないか。これは決して手前勝手な理屈ではないと思う。

 

遠く離れてできることはせいぜい節電と買占めをしないこと、ガソリンのムダ使いをしないこと、そして義援金程度しかない。義援金は直接被災者に届く唯一の手助けである。

 

アメリカのダニエルが、昨年、日本で買った貴重なタモをチャリティーオークションに出し911ドルに換えRed Crossに寄付してくれた。今もチャリティー活動をしてくれている。私も竹のテンカラ竿を2本アメリカに送った。日本の竹竿がアメリカで人気を呼び、貴重なお金に換わることを期待している。

 

4月からの釣りやイベントは被災者のことを思いつつ予定通り行うつもりである。