肩の力を抜いてみたら

 

軽い気持ちでいこう

ゴロゴロ…「パッカーン」
やったぜ、またストライクだ。おいおい、どうなっちゃっんだよ。
俺ってこんなに上手くなかったハズだぜ。あれよあれよという間に189点で1ゲ−ムが終わった。ただハンコをつくだけのボウリング部の顧問だったときの、OB戦でのことである
 

「先生は顧問なんだから、練習に来て下さいよ。コモーン」と冬に逆戻りしたような寒いギャグを学生が言うはずないが2年ぶりのボウリングである。

こんな調子で2ゲ−ム目は188点。さすがにテンカラ竿より重いものを持ったことのない身体では、つけもの石を何回も投げる手がシンドクなってきて3ゲーム目はスコアが落ちたが、それでも169点である。どうしちゃったのよ。
 

理由は簡単。話は嘉永元年ボウリングが長崎ではじめて…、そんな昔ではない前の晩のことである。酒の席でたまたま横に座った人がスポーツ心理学の先生で、ご自身ゴルフがたいへん上手い。そんな関係でプロゴルファーの心理カウンセリングもしている。
 

「いやぁ、インフルエンザで寝込んでしまって。多少よくなったので、まぁ途中でリタイアしなければいい程度で軽い気持ちでラウンドしたんですよ。そしたらなんとハーフで34ですよ。」
 

「げぇげぇー。34! プロ顔負けじゃないですか」
「そうなんですよ。自分でも信じられなくてっね。結局、70で廻ったんです。」
「どうして急にそんなことが…」
「まぁ、最後まで廻れればいいやって、力まなかったからでしょうか。でも自分も心理学者だけど不思議ですね…」
 昨晩のこの話を1投目の前にフト思い出したのだ。
「まぁ、軽い気持ちでいこう」
 
ふと水面に目をやれば

それから2週間ほどたった水窪川でのことである。ちょっと早いかなと思いながらもミニ遠山をおもわせる渓相にやる気ギンギンである。でも全然出ない。ここで出なけりゃどこで出るというポイントでもぜんぜん。


そこに磐田のFさんがやってきた。
「Fさん仕事どうしたの、今日は平日だけど」と軽いジャブ。そうだ、自分も平日なのにここにいる。
「Fさんの息子さんて野球がうまいんだってね」
「えぇ、上手いです」


しばらくこんな話が続いた。ふと流れに目をやるとアマゴがクルッと反転するではないか。コツンと合わせる。20cmサイズだ。即リリース。


「すると将来はプロ野球だね。左うちわでテンカラできるじゃない」なんて話をしながら、ふと水面に目をやるとまたまたアマゴが。オイオイどうなったんだ。


「高校は愛工大名電はどう。イチローの出たところだけど、愛知工業大学の付属でもあるし…」なんていいながらフト水面に目をやると、またまたアマゴがクルリ。これで一歩も動かず3匹。


Fさんの目の色が赤から青に変わった。
「先生、釣れるじゃない。今日はよさそうだね。上に入らせてもらうから」とFさんはぶっ飛んでいった。
 

急に釣れだしたのだ。水温が上がって活性が高くなったのだろう。これから釣れそうだ。
「やるぞぉぉぉ」と燃えてきた。
 

ところがすでにおわかりのようにぜんぜん。不思議なくらい出ない。あんなに簡単に釣れたのにヤル気を出したとたんにパッタリである。釣ったるゾと余りにやる「気」を送ったのでアマゴも気おくれしたのかもしれない。
 

万事、肩の力を抜いた方がいいようだ。肩の力を抜くのは難しい。無心とか無欲ということが言われる。何も考えない状態で行うことだろう。一瞬のうちにことが決まるものは特にそうだ。

考えるなと考える

かって多少ゴルフをやっていたときのこと。無心ということをよく言われた。「アドレスしたら何も考えるな。スッとクラブを振るだけでいいんだ」 わかっているのだ。何も考えるな。
 

アドレスする。
「考えるな、考えてはダメだ。俺は今、何も考えていないぞ。よし!」
ゴチン。ボールは足もとをチョロチョロと転がっている。「考えるな」と考えているのだから無心への道は遠い。
 

スポーツでは力まず、無心のときこそいいプレイができる、いいフォームが身につくとする伝統がある。プロ野球にもかっての名選手が前の晩に酒を飲んで二日酔いでベロベロになった状態で打席に立ったら、その日はホームランを連発したなどという豪傑伝が残っている。
 

この手の話は誇大にいい伝えられる。たまたまそんなことがあっただけで、酒を飲んで打てるなんて水島新司の漫画の世界だけだ。こんな話を先輩から聞かされるプロ野球選手もいい迷惑だろう。
 

昔、大学時代のバレーボールのときのこと。スパイクのフォーム矯正で先輩から猛烈にしごかれた。立てなくなるまでスパイクを打ち続けるのだ。もうダメという状態で真にいいフォームが身につくというである。

ヘロヘロ状態で打ったスパイクに「石垣、それだ! そのフォームだ。今のフォームを忘れるな」の先輩のアドバイスがとんだ。私はもう疲労困憊、半死半生で自分がどんなフォームで打ったかなんて憶えていない。ただただ早く終わってほしい、この苦痛から逃れたいの一心である。だから、この練習でフォームが良くなったとも思えなかったし、その後に役だつこともなかった。今は苦痛の記憶として残っている。

無心と集中は紙一重

無心になれといって何も考えられない状態を作るというのは方法が違うように思うのだ。考えられる状態のなかで、無心になるスベを身につけることなのだろう。
 

集中しろとも言われる。「集中!」なんて大声で言われると誰もが背筋をシャンとのばして、目をカッと開いたりして、いかにも集中しているぞというポーズをとる。サルだって「反省!」と言われれば反省のポーズをとる。
 

スポーツ心理の先生の話では集中するとはリラックスすることらしい。リラックスすると集中するのだという。集中しなければと思うことで肩に力が入り、背筋がピンと伸びるのは、集中ではなく固くなることだという。固くなるとギクシャクする。
 

してみると、肩の力を抜くということと集中することは紙一重なのだという気がする。気がするだけできるわけではない。テンカラでも肩に力が入るとろくなことはない。ふと気がつくとそんなに開いたら花粉症がひどくなるくらいカッと目を開いて、水面に穴があくくらい力んでいることがある。 そんなときほど合わせが強くて合わせ切れとか、竿を折るとか。

あまりこちらに釣る「気」があると魚も殺「気」を感じてしまうこともあるのかもしれない。昔から言われる木化け、石化けも殺気を出さずに自然の一部になれという教えだろう。
 

だから「俺は釣る気なんかないんだから、一日遊んでくれればそれでいいんだかんね」なんて軽い気持ちでいればいいのかもしれないが、そう思うことにしょうと思うことで肩に力が入っていたりして。ウーン難しい。
 

水窪川に夕暮れがきた。もう少しでおしまい。一日歩いて結構疲れた。これが最後のポイントだ。ヨォォォーシ最後に1匹だ。毛バリは石裏にスッと流れ、出る予感がした。
 

「それ出ろ」
バシャン、薄暗くなった夕景に飛沫が白く飛んだ。
「よし出た!」
アマゴは水面に一瞬だけ顔を出したが、飛んできたのはハリスだった。ヒンズー教の聖者のようにハリを舌に刺してアマゴは水に返っていった。肩の力を抜くのは難しい。